私たちについて
飯沼本家の歴史
飯沼本家のある酒々井町馬橋は一説に縄文の昔から集落として存在していたと言われています。飯沼家がこの地に住み着いたと思われる400年前から現代まで、私たちの歴史をご紹介します。
母屋に見る私たちの歴史
飯沼本家が酒々井に住み着いたのは400年程前と推定されます。代々当主が住む母屋を調査したところ、これまで大きな改造を4度行っており、その最初の改造における木の組み方・鉋の削り方などが350年より前の技術を用いたものであることがわかりました。また先代の位牌には徳川時代初期の年号があり、この時代よりもっと前に住んでいた可能性もあります。
江戸元禄年間
1688年から1704年を元禄年間といいますが、その時代は日本の文化の隆盛期でありました。それまで「憂き世」だった世の中は「浮世」になり、経済の発展と共に人々の生活も大きく変わったことは想像に難くありません。その中で「酒」が一般に浸透し、余剰米でお神酒を造っていた庄屋は「飲むための酒」も造るようになっていったのです。元禄年間に創業した酒蔵が一定数存在するのはこのような背景があるからではないでしょうか。
飯沼本家の酒造りのはじまり
飯沼本家ももともとは農業と林業を営んでいましたが、元禄年間に江戸幕府より神社仏閣に奉納するための酒を造る許可を得て、日本酒造りが始まりました。その後、商売用に日本酒造りを行い正式な酒屋になったのは、江戸末期。江戸〜明治の移行期に、政府が財政確保のため、地方の有力者に対して酒税納付を義務とした酒造免許を与えたところから酒造りの商いが始まりました。
日本酒醸造所の設立
10代目・治右衛門にまつわる文献には『明治初年、醸舎ヲ大設シ、以て酒ヲ醸ス』と記されています。明治初期に日本酒醸造所を設立し、蔵元当主を筆頭に酒造りに励み、地元のみでなくその他の地域にも売れるようになった姿が書かれています。文献の中には佐倉藩の方の名前が記されており、当時から地元の藩と深い関係を持ちながら事業を展開していたことがわかります。
戦前から戦時中の酒造り
戦時中とはいえ、日本酒は年中行事に欠かせないものであり、お酒を飲むことが唯一の癒しになっていた時代。料理でも使用するなど、日常生活に当たり前にあるものでした。昭和13年には石高を増石し、さらに事業の拡大を図るため精米機を導入。それ以来、自家精米にこだわり続けています。現在自家精米をしている蔵は県内でも数蔵になってしまいました。
出稼ぎ蔵人の受け入れ
最も従業員がいた戦後は、毎年冬になると新潟から60~70人ほどの出稼ぎ蔵人を受け入れていました。北陸地方では雪により冬は日本酒が造れず、雪の降らない地域の酒蔵に出稼ぎすることが主流でした。しかし30年前ほど前から若者が出稼ぎをしなくなり、蔵人も減ったことから急激に出稼ぎは終息。この現象もある種、日本酒が日本の歴史とともに生きているという証と言えます。
飯沼喜市郎の当主就任
昭和56年(1981年)には現代表の飯沼喜市郎が当主に就任。大量生産・大量消費が主流となりナショナルブランドに目が向けられる中、改めて地域の酒の価値を高め、地元で飯沼本家の日本酒が並ぶよう奔走しました。高度経済成長が終わるにつれて、社会の価値観として “大きなもの“から “小さくても特徴があり、品質の高いもの”に目が向けられはじめ、地酒ブームを後押ししました。
機械化の導入
飯沼本家は業界の中では比較的早い段階で設備投資を開始し、酒造りの機械化を行なっています。現在は5人の蔵人の手により1900石(28BYの製造予定数量/原酒換算)という量を効率よく製造しています。伝統は重んじながらも、しっかりとしたコンセプトを持って、杜氏や蔵人が飲みたい酒を造ってもらう柔軟性を大切にし、蔵人自ら営業に出向いて情報を得てもらうことで、常に新たな味に挑戦しています。
酒蔵見学とグローバル化
日本の玄関口である成田空港からほど近い飯沼本家。南酒々井の地からグローバルに日本文化を発信したいという思いから、2005年頃からは国内外問わず、あらゆる国のお客さまに酒蔵見学をお楽しみ頂いています。これぞ日本と言える、日本らしい自然に囲まれた酒蔵のCAFEで日本酒を飲み、料理を食べることで、飯沼本家の商品や日本文化の魅力をより深く味わってもらいたいと考えています。
酒々井まがり家をオープン
1995年10月に接客棟として営業を始め、その後、ショップ、ギャラリーを併設する「酒々井まがり家」をオープン。自家栽培の作物を使った商品の販売、地元千葉を中心とするアーティストたちの展示などを行なっています。日本酒を造って売るだけでなく、ものづくりに派生する “場づくり”や “ことづくり”に目を向け、日本酒以外の入り口から日本文化・食・芸術に触れる機会を提供したいと考えています。
きのえねomoyaをオープン
代々飯沼本家の当主が住み継いできた築約300年の「母屋」を、酒と二十四節気料理を提供する「きのえねomoya」としてリノベーション。古い梁や建具などはそのままに、酒造りで使われた古材を再利用したテーブルや、作家の手による椅子やランプシェードなどを取り入れ、人々の新たな憩い場として蘇りました。ゆったりと落ち着いた空間の中、酒造りと関わりが深い「二十四節気」をテーマにした料理と、蔵元で味わう特別な日本酒をお楽しみください。
きのえねSAKE CAMPをオープン
酒蔵敷地内、芝生広場に面した傾斜地を整備し、キャンプ施設を2023年にグランドオープン。これまで日本酒の試飲が行えなかったお車での来場者にも、「酒蔵に泊まる」体験を通して「甲子」の魅力をより深く味わって頂けるようになりました。朝は鳥のさえずりで目覚め、夜は日本酒を片手に星を眺めながら語る。酒蔵ならではの時間を提供しています。
「甲子正宗」から「Kinoene」へ
飯沼本家の代表銘柄である「甲子正宗」を、「甲子 -Kinoene-」と改め、2023年4月よりブランドイメージやボトルデザインなどをリニューアル。「甲」の漢字の成り立ちを示す亀(長寿の象徴である蓑亀)と、干支の「子」に由来する鼠をシンボルに掲げ、「おいしい酒づくり、たのしい場づくり」という原点に立ち返った理念のもと、気持ちを新たに歩みはじめました。
企画性の高い商品を販売
2016年頃からは企画性の高い商品を多数販売しています。お客さまとの酒造り体験によってオリジナルの日本酒を造る「Make Sake Project」や、初しぼりの日本酒をその日のうちにお届けする「日本酒ヌーボー 酒々井の夜明け」、リンゴ酸多産性酵母を使用した「きのえねアップル」など。常に新しい挑戦を続けることこそが、飯沼本家らしい歴史や伝統のつなぎ方であると考え、これからも歩んでいきます。
酒々井地域との関わり
酒々井は文字通り『酒の井戸』が由来の町。酒という文字がついている町は、日本で2つしかありません。飯沼本家が発展すれば酒々井が発展し、酒々井が発展すれば飯沼本家が発展する。そんな相互関係を大切にしたいと考えています。
飯沼家と酒々井町
飯沼本家がある酒々井町馬橋は古くは馬橋村と呼ばれ、明治22年4月1日に施行された千葉県町村制により酒々井町馬橋としてスタートしました。飯沼家12代の飯沼喜一郎は酒々井町10代の町長を務めています。また、酒々井小学校の旧校舎は飯沼喜一郎の寄付で建設。現在は地域の酒蔵として秋には地元住民司祭の「新酒祭」を開催したり、さまざまな活動を住民の方々と一緒に行っています。
酒の沸く井戸
「酒の井」を記念した酒の井の碑が 円福院神宮寺の境内にあります。平成18、19年にかけ、酒々井区の皆さまと有志により井戸を復元し、植栽や花壇、門など周辺を含めた整備を行いました。この円福院の酒の井は江戸時代後期に著された『下総名勝図絵』にも「盃の井」として記述されています。養老伝説は養老の滝のある岐阜に多くありますが、酒々井町の名前の由来から酒々井の養老伝説も古くから伝えられています。
https://www.youtube.com/watch?v=BtphGhvPBgU
南酒々井駅の建設
大正14年、飯沼喜一郎は当時の日本国有鉄道に土地を提供し、南酒々井駅を誘致しました。当時、日本酒は馬による流通が主流でしたが、鉄道の発達により、喜一郎はいち早く物流を鉄道に切り替えたのです。駅から会社まではトロッコを引き、トロッコで酒樽を運搬していました。昭和60年にびん詰工場が新築された時までトロッコの線路の跡がありましたが、工事に伴い線路は撤去され、現在はその跡は残っていません。